能を習い始めて5年になります。
あるご縁があって始めたのですが、
当初は何もわからずに稽古に通っていました。
御稽古は先生とマンツーマンで、月2回です。
毎年10月に開催される発表会「初陽会」に
出させていただくようになって、
徐々に能の深みが分かるようになってきたように思います。
これまで、「経正」「東北」「敦盛」を謡わせていただきました。
今年は、「三輪」の素謡に挑戦しました。
以下、あらすじ です。
大和国三輪の里(今の奈良県桜井市付近)に玄賓(げんぴん)という僧がすんでいました。玄賓の庵に、樒(しきみ)を持ち、閼伽の水を汲んで毎日訪ねる女の人がいました。玄賓が不審に思い、名前を尋ねようと待っているところへ、今日もその女性がやってきました。折しも秋の寂しい日のことでした。女の人は玄賓に対して、夜も寒くなってきたので、衣を一枚くださいと頼みます。玄賓はたやすいことですと、衣を与えました。女の人が喜び、帰ろうとするので、玄賓はどこに住んでいるのかと尋ねました。女性は、三輪の麓に住んでいる、杉立てる門を目印においでください、と言い残し姿を消しました。
その日、三輪明神にお参りした里の男が、ご神木の杉に玄賓の衣が掛かっているのを見つけ、玄賓に知らせます。男の知らせを受けた玄賓が杉の立つところに来ると、自分の衣が掛かっており、歌が縫い付けてあるのを見つけます。そのとき、杉の木陰から美しい声がして、女体の三輪の神が現れました。三輪の神は玄賓に神も衆生を救うために迷い、人と同じような苦しみを持つので、罪を救ってほしいと頼みます。そして、三輪の里に残る、神と人との夫婦の昔語を語り、天の岩戸の神話を語りつつ神楽を舞い、やがて夜明けを迎えると、僧は今まで見た夢から覚め、神は消えていきました。
ドラマチックな展開がないため、
現代人には興味が湧きにくいのかもしれませんが、
神道の三輪明神と仏教の玄賓僧都とのやりとりが描かれています。
舞台は奈良県の三輪の里です。
古代神話の故郷であり、能楽の母体である大和猿楽の発祥の源といわれます。
玄賓という人は、千二百年の昔、名利を離れてひたすら仏道に精進された高僧です。
三輪山全体がご神体であり、三輪杉の御神木から三輪神が現れるという設定です。
三輪山全体の神秘的な雰囲気にインスピレーションを受けた作者(恐らく、世阿弥)が、
この能を生み出したのだと思います。
三輪明神と玄賓僧都との互いを讃え合うようなやりとりに
日本人の神仏の捉え方が如実に表れているように思います。
一般的に宗教は排他性を持つものが多いのですが、
ここでは日本特有の融和の思想が見て取れます。
そんな想いを抱きながら出演させていただきました。
さて、ここで私が能に惹かれるようになった理由を紹介します。
伝統芸能として取り上げられるものの一つに歌舞伎がありますが、
私は歌舞伎には殆ど興味が湧きません。
能に在って、歌舞伎に無いもの(あくまで私見ですが)を感じ取ってしまうからです。
先日、能の舞台裏を拝見する機会がありました。
装束を着け、能面をかける(能ではそう言います)過程を見せていただいたのです。
元々、神事である能では、その過程そのものが神々しい雰囲気で行われます。
研ぎ澄まされた緊張感の中で粛々と準備が進められていきました。
舞台の上でのそのピンと張り詰めた緊張感の源が
その準備段階に既にあったのだと納得しました。
能の世界は、一期一会の真剣勝負です。
舞台は一度限りで、歌舞伎のような連日の公演はありません。
今の世の中で、一期一会の真剣勝負の世界を体験できるのは稀有でしょう。
それ故に、希少であり価値あるものだと思います。
効率性だとか利便性だとかを一切排除した世界です。
日本人はこういう世界を600年以上大切に守ってきたのです。
僅かではありますが、私も能の世界に関わりを持ちながら
その文化を周囲に伝えていきたいと思っています。
(2022年10月19日)