ウズベキスタンの首都タシケントにある国立ナボイ劇場は
地上3階建て、地下1階、1,400席を備えた壮麗なレンガ作りの建物で、
旧ソ連時代、モスクワ、レニングラード、キエフのオペラハウスと並び称される
四大劇場の一つとされていました。
1947年完成の堂々たる建造物です。
1947年といえば第2次世界大戦終結から2年後です。
今回のタイトルと
日本人には馴染の浅い中央アジアの一国の劇場の話を持ち出した点で、
勘の鋭い方は、何かを感じられたのではないでしょうか?
そうです。
それは、日本人が建設したものだったのです。
終戦直後、ソ連は多くの日本人を捕虜としシベリアに抑留しました。
その数、何と約57万5千!
厳寒環境下の長年の苛烈な強制労働により、約5万8千人が死亡しています。
そのうち9760余名がタシュケント市に移送され、
永田行夫元陸軍技術大尉率いる450人がナボイ劇場建設に携わったそうです。
極めて劣悪な衣食住の環境にありながら、
日本人の勤勉ぶりと仕事の質の高さに現地の人々は驚きを隠せなかったようです。
優に3年はかかるであろうと言われていた工程を
大幅に上回るスピードでたった2年で完了させたのです。
多くの母親が子供たちに
「日本人のように勤勉でよく働く人間になりなさい」と言い聞かせたそうです。
劇場正面に掲げられたプレートにはこう刻印されています。
1945年から1946年にかけて
極東から強制移送された
数百名の日本国民が、
このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の
建設に参加し、その完成に貢献した
そこには「捕虜」という言葉は使われていません。
聞くところによると、故カリモフ大統領が、
「決して日本人捕虜という表記は使うな」と指示したそうです。
日本とウズベキスタンは一度も戦争をしたことがなく、
また、永遠に遺していかなければならないプレートであることから、
「捕虜」ではなく「日本国民」と刻まれたのです。
期せずして、ナボイ劇場の完成度の高さを証明する事件が起きました。
劇場完成から20年後の1966年4月26日、
タシケントの街をマグネチュード8の巨大地震が襲いました。
この大地震でタシケントの建造物の約3分の2が崩壊したといいます。
周囲の建物が瓦礫の山になってしまった中、
ナボイ劇場は全く変わりなく凛として立ち続け、
被災者の避難場所として多くの人命を救ったそうです。
実際、ナボイ劇場の存在によって
ウズベキスタンには日本人伝説が言い伝えられるようになり,
日本を独立後の建国モデルにする大きな要因にもなったそうです。
ナボイ劇場と日本人との間には
もっとたくさんの素晴らしいエピソードが遺されています。
ぜひ、この動画をご覧ください。
こうしたエピソードの数々は「ナボイ劇場の奇跡」として記憶されています。
指揮官の永田大尉が技術系の軍人だったことも幸いしたと思います。
部下の中にも、日本のものづくりの伝統精神が活きていたのでしょう。
「ものづくり」の国、日本の本領発揮といったところでしょうか。
どんな仕事も手抜きをせず完成度の高いものを作り上げる日本人の気質を感じます。
それは、強制労働という劣悪な条件下でも変わることはありませんでした。
これこそ日本精神といえるでしょう。
この「ものづくり」に没頭できる日本人の気質が
第2次世界大戦後の技術立国、経済大国へ向かわせたのだと思います。
所謂「ナボイ劇場の奇跡」から私たちが学ぶべきことは
「ものづくり」の日本精神だけでは無いはずです。
誠を尽くす 愚直の姿勢こそを、学び直さなければならないのだと思います。
合理主義や対費用効果などを口にしているうちは
日本精神の本質に至ることは無いでしょう。
そんな小賢しい智慧におぼれていてはいけません。
私を含めた今日の日本人は、
この日本精神の本質を
今一度、覚醒させるべきでしょう。
2021年12月15日