前回、ナボイ劇場建設に携わった強制収容所(ラーゲリ)における
旧日本兵の誇り高き業績を紹介しました。
今回はラーゲリつながりで、
ロシアのノーベル文学賞作家、ソルジェニーツィンの処女作
『イワン・デニーソヴィッチの一日』を紹介し、
前回触れることが出来なかった労働観に繋げたいと思います。
- A・ソルジェニーツィン
1918年、ソ連・南ロシアのキスロヴォツク生れ。砲兵中隊長だった対独戦中の1945年、思想的理由で逮捕され、強制収容所生活を送る。1962年、その経験をもとに描いた『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表、一気に世界的名声を得る。1970年ノーベル文学賞受賞。1973年、『収容所群島』第1巻をパリで出版、ソ連当局の批判を受け、翌年国家反逆罪で国外追放となる。ソ連崩壊後の1994年、20年ぶりにロシアに帰国した。
シベリアの極めて過酷な労働環境のもとに、
何らの報酬がある訳でもないにもかかわらず、
単純な労働に没入している、ある男の姿が描かれています。
(紛れもなくソルジェニーツィンそのものなのでしょう)
しかも驚いたことに、彼の作業班は一日働いた後、5段目のブロックを積みあげる仕事がもう少しで片づくことを知ると、他の班は作業を終えて工具をかえしに行っているにもかかわらず、その完成にむけて猛然と突進するのである。集合に遅れれば、遅刻した者はチェックされ、営倉へ叩きこまれる決まりになっている。にもかかわらず、人員の点呼が始まってもまだ彼等は働き続ける。ようやく5段目が積みあがって仕事の終わりがくる。『畜生、やっと終ったか!』とセンカが叫んだ。『さあ、いこう!』モロッコをかつぐと、タラップをおりていった。しかし、シューホフは、たとえいま護送兵に犬をけしかけられたとしても、ちょっとうしろへさがって、仕事の出来ばえを一目眺めずにはいられなかった。うむ、悪くない。今度は近づいて、右から左からと、壁の線を確かめる。さあ、この片目が、水準器だ!ぴったりだ!まだこの腕も老いぼれちゃいないな。
多少の労賃は支払われることがあるのかもしれないが、それで生活が維持されているわけではない。そもそもラーゲルには、金で支えるべき自由な生活など初めからありはしないのだ。命令され、看視された十一時間の強制労働がくる日もくる日も課せられているに過ぎない。それだというのに、なぜ彼等はかくも働いてしまうのか。ほとんど無償の行為に近い労働の中に没入してしまうのか。集合に遅れて処罰される危険までも犯して…。
労働には麻薬的な要素があると思います(分かる人には分かるはず!)。
仕事は一種の芸術作品(アート)です。
そう捉えてみると、
私たちの仕事に対するスタンスも随分と変わってくるのではないでしょうか。
仕事への没入が生まれてこようものです。
そもそも働くことにはどのような意味があるのでしょう?
ギリシャ神話の世界でも、キリスト教世界でも、
多くの国々で「労働は苦役である」という価値観が共通して認められます。
旧約聖書のアダムとイブは知恵の実を食べるという罪を犯したために
エデンの園を追放され、以来、労働を余儀なくされました。
そこには神から与えられた罰としての労働観があります。
これは、世界中の多くの国々に共通して見られる概念のようです。
一方、日本では、古事記や日本書紀に見られるように
神々でさえも労働をしています。
それは神話の世界だけの話ではありません。
現在の皇室においても、
天皇陛下ご自身が田植えや稲刈りをしていることに繋がっているのでしょう。
日本には古来より「労働は神事である」という感覚があるようです。
日本人にとって労働とは、生きる上での特別な意味があるのです。
食い扶持を得るためだけに労働しているのではありません。
日本語の「働く」には、
「はた(傍ら)」を「らく(楽)」にするという意味があるそうです。
日本人は、隣人を楽しませ、幸せにするために働くことになります。
何と素晴らしい思想でしょう。
そして、それは日本人の専売特許なのではなく、
ホモ・サピエンスが潜在的に有している性向なのだと思います。
前回のナボイ劇場の件もそうですが、
妥協なき仕事はそれだけでアートといえるでしょう。
「仕事とは生きがいをもたらす術である」
そう確信しました。
(2021年12月22日)