中島敦さんの名は、中学の教科書で『山月記』を読んで知りました。
漢文調の歯切れの良い研ぎ澄まされた文章が印象に残っていますが、
当時は内容の深さを味わうには至りませんでした。
最近、孔子の弟子、子路を描いた『弟子』を読む機会があって、
その内容の深さに感嘆してしまいました。
慢性喘息の発作が原因で33歳の若さで夭折しています。
本日のテーマである『弟子』は死後に見つかった遺稿です。
いつの時期に書かれたものかは分かりませんが、
精神の成熟を思わずにはいられません。
彼にもっと多くの人生の時間が与えられたならば
さらにたくさんの名作が残ったことでしょう。
さて、本書は孔子と弟子たちとの物語です。
中でも子路を中心に話が展開して行きます。
何気ない問答を通しても、孔子という人物の卓越振りが伝わってきます。
圧倒的な存在だったと思います。
そんな様子を中島敦氏はこんな風に書いています。
「後世に残された語録の字面などからはとうてい想像もできぬ・きわめて説得的な弁舌を、孔子は有っていた。言葉の内容ばかりではなく、その穏やかな音声・抑揚の中にも、それを語る時のきわめて確信にみちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。」
「一つ一つの能力の優秀さが目立たないほど、過不及なく均衡のとれた豊かさ・・・」
「子路の誇る武芸や膂力においてさえ孔子のほうが上なのである。ただ平生用いないだけのことだ。」
(実際、孔子の身長は9尺6寸=2メートル16センチだったという説があり、誇張はあるにせよ巨人であったことは間違いなさそうです。ホント、何もかもが超越しています。)
(ちなみに、イエス・キリストも大男だったそうです。)
子路は武勇に秀でた快男児であり、気骨の人です。
数多くの孔子の弟子たちの中でも子路のファンは少なくないと思います。
かく言う私もその一人です。
自分にはない子路の豪胆さに憧れてしまうのかもしれません。
何しろ、街中で孔子の悪口を言う者があれば、
気がつけばその人を殴り飛ばしてしまっていたという豪胆振りです。
それは子路の純粋な没利害性のためでして、
この種の美しさを有する人は極めて稀だと思います。
しかし、それは命知らずの危うさをも含んでいて、
それを孔子は指摘します。
「生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処がある。
・・・急いで死ぬるばかりが能ではないのだ」と…。
そう諭されても、腑に落ちないのが子路です。
分かる気がします。
私には子路ほどの豪胆さはありませんが、
死を恐れない気概だけは良く分かります。
果たして、子路は非業の最期を遂げます。
それを思うときに、孔子の弟子への深慮を感じます。
弟子として師を明かそうとするならば、非業の最期であってはいけないはずです。
私は命の捨て時・捨て処を意識して生きてきましたが、それではいけないと思いました。
ちょっと変な方向に行きそうなので、話題を変えましょう。
孔子が官を追われ、弟子とともに諸国巡遊の旅に出たのは56歳のときでした。
それから13年もの長き期間、仕官先を求めて諸国を巡っています。
天のために王道政治を行う力量を培ったにもかかわらず、
それを活かす場が与えられない焦燥は凄まじいものだったに違いありません。
没我の人でしたから、尚更だったでしょう。
天によって訓練され、自身も努力を惜しまなかったが故に到達できた境涯だったはずです。
その持てる力を活かせないことの天に対する申し訳なさが
孔子の失意に拍車をかけたのではないかと想像します。
私自身も天によって訓練されてきたといういささかの自負があります。
にもかかわらず、未だ世に貢献できていないのが事実です。
時に、自らの不甲斐なさに押しつぶされそうになります。
忸怩たる想いです。
私ですらそうですから、孔子の心痛に至っては計り知れません。
しかしながら、孔子と弟子たちはそんな強烈な失意を乗り越えていきます。
一国の王道政治という特殊解ではなく、
万国の王道政治という普遍解を導き出すことを天は彼らに強いたのです。
「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸」となることに昇華していったのです。
こうした観の転換はあらゆる分野に応用できると思います。
カントのいうところのコペルニクス的転回なのでしょう。
そして、同時に儒教という思想にまとめ上げられることによって
東アジアの文明の礎を築くことになりました。
孔子の偉大さはもちろんですが、
子路をはじめとする弟子たちの存在抜きでは儒教の発展はなかったことでしょう。
そして、本書を通して思うのは、
著者 中島 敦という人の洞察の深さと精神の気高さです。
青空文庫で無料拝読できます。
しかも、たったの43ページ!
高密度の本書を 是非、お試しください。
(2022年3月9日)