時に、SNS上の誹謗中傷が問題になります。
ネット上の炎上がもとで自殺者が出たりもしています。
Amazonの書評などを見ていても
肯定的レビューが殆どの書においても、
必ずと言って良いほど、星1つの批判的レビューが1、2件は見られます。
著者をこき下ろすことで
自分が有能な人間であると認めてもらいたいのかもしれません。
面と向かっては絶対に使わないような強烈な表現で
批判していることもしばしばです。
ネットにおける匿名性が
人を過剰なまでに凶暴化させてしまうのでしょう。
巧妙なエゴの恐ろしさを感じます。
知らず知らずのうちにそんな罠に陥る可能性があることを
誰もが自覚すべきです。
もちろん、私自身も例外ではありません。
そんな時、思い浮かぶのが「人を裁くな」の聖句です。
マタイによる福音書 7:1-6 から引用してみます(新共同訳)。
人を裁くな。
あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、
どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
神聖なものを犬に与えてはならず、
また、真珠を豚に投げてはならない。
それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
「人を裁いてはいけない」と言っています。
その理由は、
自分が他人を裁いた基準で、次に自分が裁かれる様になるからです。
あるいは、
自分の量る秤で量り与えられるからだと説明されています。
所謂、ブーメラン効果です。
また、おが屑と丸太の例えは、
他人の小さな欠点には気づいて即座に裁くにもかかわらず、
自分の遥かに大きな欠点に長い間、全く気づかないことを戒めているのでしょう。
そのような人を偽善者と非難しています。
さらに、逆のことも言っています。
犬に対する神聖なもの、豚に対する真珠は、
不相応の賞賛やおべっかのことなのでしょう。
過度の肯定も偽善者の仕業として戒めています。
全く人を裁いてはいけないと言っているのではありません。
それでは、仲良しクラブのぬるま湯となってしまい、
社会は発展しません。
悪意のある批判、打算のある肯定を戒めているだけなのです。
上記が先の聖句の一般的な解釈だと思います。
その通りです。
しかし、私にはもっと別の深い意味があるように思えてなりません。
後世に最大級の影響力を持つに至ったイエスという人物は、
さらに厳しい箴言を遺しているのではないかと思うのです。
人を裁いた基準による裁きが
ブーメランのように自分に返ってくると書きました。
それを詳しく表現すれば、
「人を裁いた基準によって、他人から自分が裁かれる」ことになるでしょう。
ただ、これで済んでいれば大したことはありません。
達人イエスの真意は、
「人を裁いた基準によって、自分で自分を裁くことになる」ということではないかと思います。
自分への甘さを卒業した境界においては、
人を裁いた基準は、自らに向けられた自分自身の激しい刃となり、
先の言葉は、実に恐ろしく、情け容赦の無い審判に変わってゆくのです。
(2022年11月30日)