著者の若松英輔氏を知ったのは
Eテレの番組『100分で名著』でした。
TV画面上の独特の語り口が印象に残りました。
肩書きに東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授とあるので、
生粋の研究者かと思いきや、
サラリーマン、会社経営の経験も有する
批評家・随筆家であり、詩人でもあります。
何冊か彼の著作に触れるにつれ
今の私に必要な何かを持っている人だと直感しました。
否、今の時代に必要な何かかもしれません。
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そんな彼の新著『沈黙のちから』が出版されました。
出版社は亜紀書房です。
彼の多くの著書が同社から出版されています。
何と私も同社から出版していることから
勝手な親近感を抱いています。
さて、本題です。
沈黙が力を有する、エネルギーに満ち溢れているという主張は、
医師 マックス・ピカートの『沈黙の世界』と同じです。
デザインでもそうですが、
余白の使い方がプロとアマの違いだと感じてきました。
沈黙はその余白に当たるものだと思います。
プレゼンテーションにおける絶妙の間も同様です。
デザインにおける余白も
プレゼンにおける間も
主体者に力量が無いと使いこなせません。
沈黙と言うと「無」のイメージがあるかと思いますが、
実際は逆です。
充実していないと出来ないものになります。
気力やエネルギーが横溢している状態といえるでしょう。
それ故に、沈黙は言葉にできないもの、
可視化できないものをも伝えるようになるのです。
しかし、本書はそれ以上の世界に誘ってくれます。
著者が長年取り組んでいる霊性の世界です。
この時の霊性とは、オカルトチックなものではなく、
鈴木大拙が『日本的霊性』で唱えている意味でのものです。
以下の岡倉天心の説明が、私にはしっくりきます。
霊性とは事物の精髄かつ生命であり、
事物の魂を特定するもの、その内部で燃える炎のことである。
本書から、詩的情緒、悲しみ、愛(かな)しみ、呻き、祈りの世界を学びました。
教皇フランシスコのコトバにも感銘を受けました。
この国での自殺者やいじめの増加、自分を責めてしまうさまざまな事態は、新たな形態の疎外と心の混迷を生んでいます。それがどれほど人々を、なかでも、若い人たちを苛んでいることでしょう。皆さんにお願いします。若者と彼らの困難に、とくに心を砕いてください。有能さと生産性と成功のみを求める文化が、無償で無私の愛の文化に、「成功した」人だけでなくだれにでも幸福で充実した生活の可能性を差し出せる文化になるよう努めてください。
「日本司教団との会合」『すべてのいのちを守るため 教皇フランシスコ訪日講話集』
「世にはびこる成功物語という偽りの神話に飲み込まれてはいけない」と警鐘を鳴らしています。
私たちは、偽りの神話に踊らされて
人間にとって最も大切なものを損なっているのかもしれません。
このコトバに教皇フランシスコという人物の素晴らしさを直に感じます。
これは、著者が言うところの「霊性」
その素晴らしさに依拠するのでしょう。
心からそう感じます。
ヨブ記の解釈にも目を開かれました。
ヨブが貫いた信仰は、彼自身の努力のみならず
何かの助力が無ければ行い得ないと指摘しています。
この世には、その存在を安定化させるエネルギーが
常に働いているような気がします。
正義が正義であり続け、
理想が理想として保持できるための力です。
そんな不思議な力が世の中には存在しているというのです。
そうかもしれません。
否、確かにそうでしょう。
それは人間が持つ霊性に関わっているようです。
先の教皇のコトバにあるように
人間が自身の霊性に目覚め、
その霊性に基づいて互いに助け合うことが大切なのだと思います。
そして、沈黙こそ、
そうした霊性を研ぎ澄ます場になることを知りました。
(2021年9月15日)